昭和40年12月16日 朝の御理解



 昨日、佐世保の前田さんから、手紙が、久保山先生宛に来た。善導寺の原さんの姉さんに当たられます。そうですね、椛目にお参りされたというなら、まだ数えるだけしか参っておられません。毎月いっぺん夫婦の者が。椛目にお参りされることが楽しみ。それをいうなら、家内と二人で、指折り数えてから、お参りする日を、待っておるという様な、お参りの仕方の方。
 もう椛目に行ったら、神様は拝まんでん、親先生にお会いしただけでツーと帰ったっちゃよかち、言った様なその信心。なかなか竹を割った様な方なんですね。昨日も、久保山先生宛に来とるその手紙を読ませて頂きましたらですね、この頃から住まいの事でお願いがしてあった。そしたら、何と言うかね市営住宅というでしょうか、県営住宅というでしょうか、そういう様な所に申し込んであった。
 なかなか難しいらしい入ることが、それに当選のおかげを頂いていの一番に当たったというわけなんですね。日頃念ずる金光様のおかげであり、親先生のおかげである。どうぞ、久保山先生あなたからお礼を申し上げて下さいといういうわけなんですね。これも昨日夕食をすましとりましたら、福岡からハタさん、福岡の松岡さんの妹にあたります。もう、十何年も前だったでしょうか、主人がある会社の運転手をしておる。
 運転手さんの仕事、子供さんがその当時一人、二人あったでしょうか、本当に細々とした生活だった。ところが、そのチットした事故があったために会社をくびになられた。本当に、露頭に迷う様な難儀な状態であった。それで、お願いに見えられてから、もう、本当に主人がもう一辺あちらの会社に雇えて貰える様にというお願いだった。ところが、雇うてもらえる様にていうお願いは聞き取れなかったけれども。
 松岡さんの奥さんの兄弟があちらで果物屋をしておる。それでまあ果物のほん軒先を借りて、そこでみかん、りんごといった様なものを出して商うておられた。非常にその商いがある。ところが、そこを追い立てられたから、又次の今度は少し大きな家を借られた。何回かそんなことがあったでしょう。もう追い立てられるたんびに、その折角お客さんも少うし出けてきよるとに、又、追い立てられなければなりません。
 又、追い立てられなければなりませんと言いながらです。その、追い立てられるたんびんに良いところへ、こう店が出けていくんですね。私先月でしたか、福岡へ参りました時に、ここがハタさん所の店ですよというてから、それこそ渡辺先生のおられるところの通りなんです。しかも角のですね、とっても良い家なんです。大家さんが良くて、そこの角に立派な果物屋さんが出けてたんです。
 私やこげぇん、ま言うなら目抜きのですね、こうしかも角の家の所こういう店とは思わなかった。昨日も来てからお届けするに、信号、赤、青のシグナルが付くあれがありますね。あれがその出けた、道のとこに出けたらしいです。それで自動車の停留所が、向こうにあったのが、昨日ちっと表に出とりましたところが、ほんの家の前んとこに、バスの停留所の看板が立っとるげなもん。
 アラここで乗り降りがあるげなたいて、ところが、やっぱ乗り降りがなるごとなりゃ、もう早速、商いの方におかげが頂いて行くと言うわけなんですね。まあ十年余りでいわゆる願いは叶わなくても、その願い以上のおかげが、こう次々とおかげを受けていっておるですね。おかげを頂きまして、去年からお願いしてあった、ちっと博多市内ではありますけれども、ちっと田舎の方へ土地を買って、この頃住宅も出けました。
 本当にそこにりんご箱いくつか据えて、そこにあの売っておったんですよ一番始めに、おかげというものは何処にあるやら分かりませんですね。それもご主人が、いわゆる運転手生活の細々とした生活の中からです。クビになられてもう一辺どうぞ復職がでける様にという願いがです、その、願いはままにならなかったけれども、いわゆる始めてするお商売ではあったけれども。
 そのリンゴ屋さんじゃない、その果物屋さんを始められた。追い立てられるたんべんに、その家が良い場所にとても家あたりなぐらいな果物屋が、あげな場所に出たらそれこそ家賃の方が大変じゃろうと言いながら、何時も、その喜び一杯じゃないですね。そう不安であり、心配してからおかげを頂いていってるひとなんです。昨日、これも福岡の川上さんがお礼に出てみえられました。
 非常にそのお世話が好きなんですね、小学校のPTAの世話なんかやってるんです。それで学校で発行する所の新聞に色んな記事をなんじゃ書いてくれと言われるんですね。けれど文章も下手だしおかしいからと、断わり言っとたけれどもどうにも断わりきれなくて、ここに原稿を書いて愈々明日出そうと思います。と先生に一辺見て頂いてから二通り書いてある。どうか良か方を消し取って頂きたい、ち言うわけなんです。
 そういう様な、お願いで参って見えられましてからです、本当に先生私が福岡で始めて先生にお目にかかって、十何年も結婚して子供が出けなかったのがです。お願いをしたら、その月から身ごもりのおかげを頂いて、もう次々と年子に息子二人のおかげを頂いて、その、息子達が、も非常に頭がいい。非常にその先日も、そのことを書いてあるんです。教育ママというその題でですね。
 先日から、自分が風邪をひいて休んだと、主人は県庁に勤めておられます。それで、二人の子供達が、兄ちゃんの方が炊事の方をやってくれる。弟のほうが買い出しに行ってくれる、そして、私の枕元へちゃんとその何時の間にこういうことを覚えておっただろうかと。今小学校の六年生と四年生位でしょうか、六年生と五年生でしょうか、年子でしたから、本当に何時もお礼に出て参りますと。
 本当に又可愛らしい子ですが、頭のいい賢い子です。やっぱり神様ができあいじゃなくて、こらあ誂えたつじゃけん違うのと、何時も私が言うんです。それがもう、秋永先生が何時も良く話の例にだされる様に、この人ぐらいおかげの頂き上手はないですね。非常に喜びてなんですね。もう本当に喜ばれるんです、もう私ぐらいな者に、私ぐらいな者に、とてもこの新聞に載せて頂く。
 この頃から、も何か善意のお母さんとか、何とかという見出しの誉め讃えた、その自分の事が載っておるわけなんですね。今度は、自分がそうした記事を書かしてもろうて、それが新聞に載るというわけなんです。それはもう、本当にたいした信心はでけんのだけれども、願ってくれば願った通りのおかげをうける。これはまあ、ひとつのおかげを頂く、そういう様々なケースがあるということです。
 ところが、椛目に毎日毎日、日参り夜参り出けれる環境の人それは、椛目近所だけではない、福岡あたりからでも遠方からでもです、椛目にとにかくしげしげとお参りの出けれる。例えば、徳久さんなんかの場合なんかでも、本当に椛目にご縁を頂かれた、最後、困った事の連続ですからねえ、あっちは。それでいて信心の喜びは、いよいよ高まっておかげを頂いておられる。
 ですから、そのおかげを頂く、そのケースというのは、もうこうとは決まっていないということ。椛目でもそうでしょう。本当に水ぶくれ的にたまがる様に、膨れ上がってからおかげをうけたという、ご信者さんもいくらもある。やっぱり、信心は続いておるんですけれども、先日も、あるそういう水脹れ的なおかげをうけた奥さんが参って見えてからです。もう本当に、おかげを受けられたんですねえ。
 おかげで、もう山でも畑でも沢山買われましたし、家も立派に新築も出けましたし、本当におかげを頂かれた。ところがですそういうその、おかげを先に頂いてからです。先生そのおかげを先に頂きますと、その中に信心をつめていくと言うことに骨が折れますというておられます。なかなか良い信心が出けます奥さんです、いわばそういう様なケースもある。信心はさほどにでけんのだけれども。
 いわゆる、またたく間におかげを受けて、それこそ水脹れの様に膨れる、それが自分にも分かる。だから、中に本当に信心をつめておかなければ、危ない危ないと何時も思うから信心をさして頂くのだけれども、なかなか信心をでけずに先におかげを受けた、そのおかげや、水脹れ的なおかげであってです、その中に詰めていくということになかなか踏ん切りがつかない、信心がでけないとこう言うておられる。
 これなんかも一つのケースである。私は思わせて頂くのに、それは成程、霊的なことを言うなら、そのめぐりの深い人、めぐりの案外少ない人といったようなことになるかも知れません。と同時にその人のいわば氏子の根に応じてと、こう仰いますね神様は、根に応じておかげを下さる。おかげの願っても願ってもおかげの受けられんという人達は、やっぱ根気が強い人です。
 けれども、頂き抜いた暁の事を思うたらです有難い。私はそういう様なそのおかげを大体私共はおかげとこういうのであります。いわゆる私共が信心にならせて頂いて、いわゆる、私共のね、体で頂くものでもなからなければ、手で頂くものでもない。いわゆる心で頂き止めていこうというおかげ、「おかげは、わが心にあり」と仰る。その心で受けとめる、いわゆる、信心で受け止める。
 信心さして頂く様になったら真心にならなければ馬鹿らしい。段々信心さして頂きよったら、愈々神様を信ずる力が生まれて来た。然もその信ずると言うても、只神様がござると言う事だけを信ずるのではなくて、この神様はこういう様な神様だと言う事を信ずる事がでける様になる。私共が自分の例えば体を大事にせない者はありません。チツト風邪を引いたチット頭が痛いといゃあ、やはりそれを大事にせにゃおられません。
 人は大事にしてくれません、自分自身が一番大事にする、けれども、それよりも、もっともっと数倍も、何百倍も大きい力を持ってです、私共を大事にして下さる神様がござると言うことを信ずる。信ずるとは、そこが信じれていくのである。私共の上に現れてくる一切が神愛だと信じれれる、そういう信心を持って頂きとめていくところのおかげ、神様を信ずる力が生まれてくる。
 そこに、真心にならなければ馬鹿らしいという様な信心が生まれてくる。そこに信心である、いわゆる神心が育っていく。そういう心を持ってキャッチするところのおかげ。椛目にご縁を頂いておる殆どの御信者さん、今日例えば朝参りしておられるどの顔を見てもそういう意味合いにおいて、おかげを下さろうとしておる方ですね。例えば、私が今日ズート見回しますと、おかげが気安う受けられん。
 もちろんそこにはです、確かにおかげを気安う受けられんものを持っておるということも事実です。もうこの人たちに気安くうおかげでんやったら、もうそれこそ大将になってしまうじゃろうという様な、いわゆる、おかげをやってはやはり危険だと、危ない。確かにそこも考えなきゃなりません。と同時にです、神様がいよいよ信心をもって下さろうとしておるということをです、ひとつ本気で分からして頂いてです。
 本気でその信心にならせて頂かなければならんということ。私、今朝御神前に出らして頂きましたら中学生風の子供が、丁度いうなら試験前の勉強の様な感じです。勉強しておる。机に向かって、一生懸命勉強しておる。横にこんな大きなご飯のおひつがある。もう、おひつにこうやって給食の様に、こう腕を置いてですね、そしてから一生懸命こうやって勉強しておる、という様な御心眼を頂き。
 そして今日の今は聞いて頂いた様なお話をさして頂いておるわけでございます。どんなふうなことだと思いますか神様がです、皆さんには本当に勉強さしたいばっかり、いわゆる勉強さして学徳を与えたいばっかり、いうなら信心の勉強さして下さってです、いわゆる学徳ではない、その神徳を与えて下さりたいばっかりだということです。自分達はそうしてそういうケースの中にあるタイプの信心だということなんです。
 ある意味合いでは、神様はいわば特別によって下さってあるということと同時に、特別に私共には、又すぐには受けられないめぐりを持っておる銘々であるということを、悟らにゃいけないということです。今腹一杯ご飯を食べさせる様なことではです、必ずその勉強には眠気がくる。ところが、おひつをここに引き寄せといてから腹一杯ご飯食べてから、勉強にかかってごらんなさい、直ぐに眠気がくるですよ。
 いうならば、今、ままにならないことがおかげであるということ。今、腹一杯頂けないということがおかげであるということ。そこんところをひとつ本気で分からして頂く、いうならばです、もういや勉強の面白味です。腹のへっとるとも覚えんくらいに、私は本気で勉強しなければならない時だとこう思うです。そして信心です、心ひとつでおかげを下さろうとする、心しだいなんです。
 だから、心に取り組まなければならん、神様が信心を持っておかげを下さろうとする。「今月今日で、一心にたのめい、おかげは、和賀心にあり」、その和賀心、いかにその和賀心ということに本気で取り組ませてもろうて、おかげを蒙らなければならんかということが分かるでしょう。これは昨日、松岡さんの妹さんのハタさんという方に話したことですけれども、昨日、そういう様なお礼のお届けもありましたけれども。
 大体、昨日参ってこられたのは、娘さんが高校行っとります。それがですね、どうもこの頃可笑しいんです、くよくよくよしている、どうかいや涙を流す、何か学校であったのか色々追求すると別に何でもない。皆が旅行に行かれん、と 別に何でもない、皆んなが旅行に行かれんというのなら泣き出そうごたるとに、旅行に行きたくないといって泣く、それを無理やったら痩せ細って帰ってきた。
 いよいよ親として、心配でたまらんと、いうわけなんですね。ハタさん、もう信心さして頂いて何年になるね、あんたが参ってくる頃には、必ずお願いで参ってくるだけ、それでなかったら、お伺いでしょう、あすこん土地を買うてよいか、いけないか、家を建ててよいか悪いか、家を移ってよいかどうか。何か、そういうお伺いごとか、お願いごとだけじゃろうが、ね。
 あんたどんが、忙しかけん参られんだけじゃいかん、どう、例えば月に一辺ぐらいはです、お礼参りをさせてもらはなければおられないという様な、信心になってこなければいけんのじゃないか、と 言った様なことを、私お話したんですけども、そういうおかげの受けやすい様なケースにある人でもです。やはり段々おかげを下さって、神様が分からせて頂ける様になったらです。
 本当の神様を分からせて下さろうとする働きが、始まる事は始まるけれども、おかげを先に受けてからの、それは、なかなか先程申しましたけれども、○○さんじゃないですけれども、水脹れ的なおかげを頂かしてもろうて、これじゃいかん、水脹れであることが分かっとる。信心もでけんのに、こげなおかげ頂くはずがない、けれどもおかげは現実にこうして受けておるけれども。
 そのなかに信心を詰めていくのは非常に難しいとこういう。大きな立派な家を建てた、ところが中味はガラーンとしておる。中味が一杯、人から見たならば、本当にお粗末な家の様であるけれども、中に入ったら建具立派、調度品が立派中味が立派、中味が立派に出けてから、外が立派になるということの方が、私は本当じゃないだろうか。ですから、お互いの信心がです。
 先ず中味、いわゆる、信心を頂かしてもらう。信心を分からせて、頂くと事に本気でならなければです、私は何時まで、たってもその辺で、その辺をごま化ししたまま、でけんままおかげを頂くということはです、頂こうと言うことはです、これはずるい考えですからおかげにならん。本気で、やはりそこに取り組ませて頂いて、そこの信心を体得しょうとする願いを。
 いよいよ立ててからの信心にならなければいけないと思うですね。どうぞ腹一杯ご飯を頂いたら、ね 必ず勉強の時に眠気がくる。勉強はせにゃならん、勉強はせにゃならんとこう思うとるけれども、なかなか勉強がでけない、神様が下さろうとするのはです、本当に勉強させたい、神徳をさずけて下さろうとする働きを悟らせてもろうてから、本気で勉強にかからなければならんと思うですね。
   どうぞ。